第一章 プロローグ リキという名前
カンカンカンカン……。
眠い。眠いよ。
まぶたを開けたいのに、重たくて持ち上がらない。頭の中には、白い霧がかかっている。身体も自分のものじゃないみたいだ。
カンカンカンカン……。
聞き慣れた音だ。
ガタゴトン、ガタゴトン……。
来た。奴が来た。
闘うか?
いや、無理だ。また弾き飛ばされてしまう。
この音が聞こえると、いつも大きな怪物がボクの前を横切っていく。長くて、速くて、ものすごい音を立てるやつ。地面まで震わせながら現れて、あっという間にいなくなる。
だけど、ここはどこだろう。
土の匂いがしない。草の匂いもしない。代わりに、鼻の奥がつんとする、知らない匂いがする。
ボクはどうして、こんなところで寝ているんだろう。
なんだか、お尻が痛い。
舐めなきゃ。
首を曲げる。けれど、口の先に透明な壁がぶつかった。
あれ?
もう一度、身体を丸めようとする。透明な壁が床に当たって、カコン、と音を立てた。
届かない。
お尻が見えない。
なんで?
眠い。とても眠い。
◇
「〇〇動物病院……ここか」
「ママ、まだかな。まあいいか。先に入って待っていよう」
「こんにちは。保護犬の預かりに来ました。まだ家内が着いていないんですが、先に迎えに来ました」
奥から、女性の明るい声が返ってきた。
「はーい、どうぞお入りになって。いま、ほかの子の世話で手が離せないの」
「そこにいる子。黒いケージの中」
男は待合室の隅に置かれたケージをのぞき込んだ。
大きな透明の輪を首につけた薄茶色の犬が横たわっていた。柴犬のようだが、身体は驚くほど丸い。
「この子ですか? 柴犬……ですよね?」
「そう、その子。いま協会の会長さんも見えるから、ちょっと待っていてくださいね。柴犬に見えないでしょ。ぶよぶよだもの。完全に運動不足」
獣医師は笑った。
「何歳なんですか?」
「うーん、五、六歳ってところかしら。正確にはわからないの。多摩川の河川敷で保護されたのよ。保健所では『チャカ男』って呼ばれていたんですって」
「チャカ男……」
「落ち着きがなかったからでしょうね」
男はもう一度ケージを見た。
「いまは、チャウチャウ犬みたいですね。ずいぶんおとなしい」
「ははは。麻酔が効いているからよ。来たときは大変。そりゃあ、もう大暴れ」
「ど、どう猛なんですか。噛みます?」
「柴犬は全般にやんちゃよ。もともと狩猟犬だからね。知らない人に警戒する子も多いわ」
「聞いてないなあ、それ……」
「大丈夫。餌をくれる人には、そう簡単に攻撃しないから。特にこの子は」
「特にこの子は、って?」
「食いしん坊」
獣医師が笑うと、ケージの中の犬の耳が、ほんの少しだけ動いた。
そのとき、入口のベルが鳴った。
カランコロン。
「遅くなりましたー」
大きな声と一緒に、女が駆け込んできた。
「ママ、遅いよ」
「ごめんごめん。道がわからなくて、行ったり来たりしちゃった」
女は夫への謝罪もそこそこに、まっすぐケージへ向かった。そしてしゃがみ込み、犬の顔をのぞき込んだ。
「あら。キミが、うちで預かる子?」
犬の鼻先に指を近づける。犬は透明な輪の奥で、二度、鼻を動かした。
「チャカ男かあ。悪くないけど、ちゃんとした名前を考えなきゃね」
「もう名前の話?」
「だってチャカ男よ。毎日呼ぶのよ?」
「先生、お世話さまです。去勢手術は、もう済みました?」
「無事に終わったわ。麻酔が覚めるまで、もう少しかかると思う。今晩はごはんをあげないでね」
「それから、エリザベスカラーは当分外さないで。傷を舐めると治りが遅くなるから。一週間くらいね」
「はーい。会長さんにご挨拶したら、連れて帰ります」
女は立ち上がり、夫の肩を軽く叩いた。
「パパ。この子、車に積んでおいて」
「いま先生に噛むかもしれないって聞いたばっかりなんだけど」
「大丈夫よ。パパ、おいしそうじゃないから」
「そういう問題か?」
ごはん。
いま、ごはんって言った。
今晩は、なんだって?
◇
また車に乗せられた。
揺れる箱の中で、ボクは丸くなった。
長靴のおにいさんのところに戻るのかな。
それとも、また別の檻に行くのかな。
前の席では、おばちゃんがずっとしゃべり、おじさんがときどき短く返事をしている。ボクのことを話しているみたいだけれど、よくわからない。
お腹が空いたなあ。
車が曲がるたび、首の透明なやつが箱の壁に当たる。
カコン。カコン。
邪魔だな、これ。
そのうち、おばちゃんの声が遠くなった。
ボクは眠った。
次に目を開けたとき、知らない家と犬の匂いがした。
『ヴーッ! ワンワンワン!』
飛び起きようとして、足がもつれた。
透明な輪が床にぶつかる。
カコン!
『あんた、誰?』
目の前に、ボクより小さな黒い犬がいた。胸を張り、こっちをにらんでいる。
こ、こんにちは。
『保護犬預かり? なにそれ。聞いてないわよ!』
またボクを見る。
『パパ! 誰、この子。ママが意味わかんないこと言ってる!』
よくしゃべる子だなあ。
ここはどこだろう。
長靴のおにいさんはいない。
冷たい檻もない。床はやわらかくて、部屋は明るい。
「ほら。ゆっくり飲めよ」
ありがとう、おじさん。
顔を突っ込もうとしたら、透明な輪が器にかぶさった。おじさんが器を少し持ち上げてくれた。
ぺちゃぺちゃぺちゃ。
おいしい。
水って、こんなにおいしかったかな。
黒い子が横からのぞき込んでくる。
「福ちゃん、これはこの子のだよ」
だけど、それにしてもお腹が空いた。
ごはんはまだかな。
今晩はごはんなしって、さっき白い服の人が言っていたけれど、あれはボクのことじゃないよね。
え?
ボクなの?
本当に、ないの?
おばちゃん。ボク、お腹が空いています。
「そんな顔しても駄目。今日は手術したんだから、ごはんは明日の朝ね」
明日の朝。
朝は、いつ来るんだろう。
『変なもの首につけて。妙な子』
『それに、ずいぶん丸いわね』
福ちゃんだって、少し丸いよ。
言おうかと思ったけれど、やめた。ボクは毛布の上に身体を丸めた。
明日になったら、ごはんをくれる。
それだけ覚えておけばいい。
眠い。
◇
チュンチュン……。
『ヴーッ! ワンワンワン!』
『ねえ、あんた。起きなさいよ』
ん?
ここはどこだっけ。
ああ、そうだ。昨日、連れてこられたんだ。
福ちゃん、おはようございます。
『馴れ馴れしいわね。福ちゃんじゃないわよ』
じゃあ、なんて呼べばいいの?
『まず名乗りなさい。いったい、あんた誰? なんでママと一緒に来たの? どこから来たの? いつまでいるの? それに、ちょっと臭いわ。お風呂とか入ってる? その首のものは何? どうしてそんなに太ってるの?』
ちょ、ちょっと待って。
次から次へと聞かれても、答えられないよ。
ちょっと黙って。お願い。
『なによ』
コホン。
えーと、改めまして、こんにちは。
ボクがどうしてここへ来たのかは、ボクにもわかりません。昨日、おじさんの車に乗せられ、起きたらここにいました。
ボクは当分ここにいるそうです。
里親さんが見つかるまで。
でも、その人が迎えに来るまでは、ここで暮らすんだと、おばちゃんが言っていました。
『その前は?』
その前?
どこにいたかって?
川のそばです。
黒い長靴のおにいさんが、ときどきごはんをくれました。いつもではありません。でも、来た日はわかります。遠くからゴムの匂いと、カリカリの匂いがするからです。
おにいさんは昼間、たまにボクの頭を撫でてくれました。夜になると、どこかへ帰ってしまいました。
ボクには、帰るところがありませんでした。
だから草の上で丸くなりました。雨の日は橋の下。寒い日は、風の来ない壁のそば。
ある日、山盛りのカリカリを見つけました。
全部食べて河原で眠っていると、大きな網が空から落ちてきました。
びっくりしました。
暴れました。噛もうともしました。だって、怖かったから。
それから檻に入れられて、ほかの犬たちと同じ部屋で過ごしました。狭くて、暗くて、床が冷たい部屋でした。
どの子も、あまり鳴きませんでした。
最初はみんな鳴くのです。
でも、しばらくすると鳴かなくなります。
昨日、知らないおばあちゃんが来ました。杖の先をボクに向けて、言いました。
「この子」
それがボクでした。
おばあちゃんは檻の隙間からおやつを入れて、ボクの頭を撫でてくれました。
すぐに、いい人だとわかりました。
いい人は、手の匂いがやさしい。
黒い長靴のおにいさんはボクを檻から出し、車へ連れていきました。
また、どこかに行くんだと思いました。
そのときです。
カンカンカンカン……。
ガタゴトン、ガタゴトン……。
あの大きな怪物が、すぐそばを通りました。
怖かった。
でも、眠かった。
『それで寝たの?』
うん。
『あんた、図太いわね』
そうかな。
『そうよ。普通は眠れないわよ』
◇
「うーん。何がいいかしらね、名前」
朝ごはんの支度をしながら、ママはボクを見るたびに首をひねった。
「チャカ男は嫌よ。ちょっとダサいわ」
「ちょっとか?」
「短い間でも駄目。ここでチャカ男って呼ばれて、よそへ行ったらまた新しい名前でしょう。この子、頭がよさそうには見えないから、何度も変えたら覚えられないかもしれない」
「何がいいかなあ。ねえ、あんた。何がいい? 自分の新しい名前よ。チャカ男は嫌よねえ」
ボクは、床に置かれた器を見た。
ママ。ボク、ごはんをもらえるなら、名前はいりません。
「ママ、こいつの散歩、俺が行ったけどさ」
パパが腰をさすりながら部屋へ入ってきた。
「あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。おまけに力が強いのなんのって。二日酔いの身体にはきついよ」
「だから、いつもあんなに飲んじゃ駄目だって言ってるの。運動だってしてないじゃない。当分、その子はパパの担当ね」
「聞いてないよ」
「ちょうどいいじゃない。二人とも、ぶよぶよのお腹を何とかなさい」
「二人って、俺とこいつ?」
「ほかに誰がいるの」
福ちゃんがママの足元で、得意そうに尻尾を振った。
「ただでさえ福ちゃんの散歩だけで大変だったのに、二匹かよ。本当にすぐ見つかるの、里親」
「ご縁だからね。明日かもしれないし、少しかかるかもしれない」
「少しって、どれくらい?」
「少しは少しよ」
「そういうの、一番怖いんだよな」
パパはしゃがんで、ボクの頭に手を置いた。
「なあ、ママ。こいつ、やたら力が強いからさ。名前、リキでいいんじゃない?」
「リキ?」
ママは手を止め、ボクを見た。
「リキかあ。悪くないわね」
パパが、ボクの頭を二度撫でた。
「よし、リキ」
もう一度、今度ははっきり言った。
「あんたは今日から、リキだ」
リキ?
それは、おいしいですか?
その直後、ママが器を床に置いた。
カリカリの上に、やわらかいものがのっている。昨日から、ずっと待っていた。
「リキ、ごはんよ」
ママが言った。
リキ。
ボクは器へ駆け寄った。透明な輪が床に当たり、カコン、と鳴った。
そんなことは、どうでもいい。
ごはんだ。
夢中で食べた。噛むのも忘れた。器がどんどん前へ逃げていくので、パパが足で押さえてくれた。
『ちょっと、ゆっくり食べなさいよ。誰も取らないわよ』
福ちゃんが、すぐ横で言った。
でも、福ちゃんはボクの器に口を出さなかった。パパも取らなかった。ママは笑って見ていた。
「そんなに慌てなくても、夜もちゃんとあげるわよ」
夜も?
明日の朝も?
その次も?
『そうよ。ここにいる間は、朝と夜。毎日よ』
福ちゃんが、当たり前のことのように言った。
毎日。
◇
次の朝。
チュンチュンチュン……。
『ねえ、あんた。起きなさいよ』
眠い。
『起きなさいってば。リキ!』
ん?
『リキ!』
ああ。
ボクの名前だ。
目を開けると、福ちゃんの黒い鼻が目の前にあった。
おはようございます、福ちゃん。
もう、ごはんの時間かな。
『何言ってるの。まだ四時よ。ママが起きるわけないじゃない』
ママ。
ああ、ごはんをくれる人。
早く起きないかな。
『あのね、リキ』
福ちゃんは胸を張った。
『あんた、この家にいる間は、アタイの言うことをちゃんと聞きなさい。なんてったって、先住犬は偉いんだから』
先住犬?
福ちゃんのこと?
よくわからないけれど、わかったよ。
福ちゃんの言うことを聞くようにする。
『リキ。あんたは保護犬っていって、捨て犬だったの』
捨て犬。
その言葉も、ボクにはよくわからなかった。
『うちのママはね、そういう子を見つけると、すぐ連れてきちゃうの。放っておいたら、いなくなっちゃうかもしれないから。困った人なのよ』
『だから、あんたは当分ここにいる。いい子にしていたら、そのうち里親さんっていう新しい家族が迎えに来るわ』
新しい家族。
『それまで、アタイがあんたの教育係。散歩の道も、ごはんの場所も、ママを起こす時間も、全部教えてあげる』
あの顔さえしなければ、福ちゃんはかわいいのになあ。
それに、その話は昨日、ママもしていた。
でも、言わないでおこう。
廊下の向こうで、足音がした。
福ちゃんの耳が立つ。
ボクの耳も立った。
「もう、二人とも早いわねえ」
ママだ。
ボクは立ち上がった。
ワンワンワン!
おはようございます。
ごはん、まだですか。
ママは笑いながら、ボクの前にしゃがんだ。
「おはよう、リキ」
また、その音がした。
リキ。
呼ばれると、なぜか胸の奥が少しだけあたたかくなる。
昨日までは、誰かが声を出しても、それがボクを呼ぶ声なのか、ほかの犬を呼ぶ声なのかわからなかった。
でも、いまはわかる。
リキは、ボクだ。
ママが呼んだら、ボクはママのところへ行く。
パパが呼んだら、たぶん行く。
福ちゃんが呼んだら……少し考えてから行く。
窓の外から、遠く電車の音が聞こえた。
カンカンカンカン……。
ガタゴトン、ガタゴトン……。
大きな怪物は、今日もどこかへ走っていく。
ボクはもう、闘おうとは思わなかった。
透明な輪を床にぶつけながら、ママのあとを追いかけた。
カコン。カコン。
台所から、ごはんの匂いがした。
ここがどこなのか、まだよくわからない。
いつまでいるのかも、知らない。
だけど、ボクを呼ぶ名前がある。
朝になれば、ごはんがある。
うるさい福ちゃんもいる。
それなら、今日はここにいてもいいと思った。
第2章につづく


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