四人の足跡(4)――保護犬リキが家族になるまで

小説

切通しの向こう側

チュンチュン、チュンチュン……。

朝だ。

いつもなら、もう聞こえてくるはずだった。

『リキ、起きなさいよ』

福ちゃんの声。

だけど、今日は聞こえない。

眠っているのかな。

福ちゃんがボクより遅くまで寝ているなんて、珍しい。

ボクは身体を伸ばし、福ちゃんの寝床を見た。

いない。

ソファの上にもいない。

台所にもいない。

ママの布団のそばにもいない。

お水の器は昨晩のまま。朝ごはんの時間なのに、福ちゃんの足音がしない。

玄関には、福ちゃんの赤い首輪とリードが掛かっていた。

おかしい。

福ちゃんは散歩へ行くとき、必ずママを連れていく。

ひとりで外へ出ることなんてない。

だって福ちゃんは、自分のことを犬だと思っていないからだ。

『散歩させてあげるわ』

いつも、そんな顔でママの横を歩いている。

ボクは寝室へ走った。

ワン!

ママ、起きてください。

福ちゃんがいません。

◇

「福ちゃん?」

ママは、まだ眠そうな声で呼んだ。

返事はない。

「福ちゃん、ごはんだよ」

それでも出てこない。

その一言で姿を見せない福ちゃんなど、見たことがなかった。

ママの顔から眠気が消えた。

押し入れ。お風呂場。テーブルの下。庭の植木の陰。

パパも起きてきて、家じゅうを調べた。

「玄関は閉まってるぞ」

「窓も全部閉まってる」

「じゃあ、どこから出たの?」

誰にもわからなかった。

ボクが脱走したあの日とは違う。

門は閉まり、鍵も掛かっている。

首輪もリードも家にある。

福ちゃんだけが、いない。

ママは赤い首輪を両手で握った。

「福ちゃん……」

その声を聞くと、胸の奥が冷たくなった。

ボクがいなくなったとき、ママはこんな気持ちだったのだろうか。

パパが玄関を開けた。

「手分けして探そう。俺は海岸へ行く」

「私は駅の方を探す。交番にも連絡する」

待ってください。

福ちゃんは、そっちにはいません。

ボクには、ほんの少しだけ匂いがわかった。

庭でも、玄関でもない。

開いた窓から入ってくる朝の風に、福ちゃんの匂いが混じっていた。

でも、いつもの匂いとは違う。

濡れた土。

苔。

昔の木。

そして、ずっと前に降った雨の匂い。

あの匂いは、山の方から来ている。

ボクはパパのズボンの裾をくわえた。

「なんだ、リキ」

山です。

早く。

ボクは玄関へ走り、もう一度パパのところへ戻った。

「もしかして、福ちゃんの場所がわかるのか?」

ワン!

パパ、早くしてください!

◇

ママは駅へ向かい、ボクとパパは山へ向かった。

朝の逗子は、まだ半分眠っていた。

パン屋から焼きたての匂いがする。

新聞を積んだバイクが走り抜ける。

いつもの犬たちが、家の中からボクを見ていた。

『今日はずいぶん急いでいるな』

福ちゃんを見ませんでしたか。

『あの黒い、お高くとまった子か?』

そうです。

『見てないよ』

福ちゃんは、お高くとまっているのではありません。

自分を人間だと思っているだけです。

でも今は、説明している場合ではない。

ボクは風の中の匂いを追った。

海の匂いが薄くなり、土の匂いが濃くなっていく。

道はだんだん細くなった。

舗装された道が終わり、足の下が土に変わる。

名越切通だ。

以前、パパとママと福ちゃんと歩いた古い道。

両側から土と岩の壁が迫り、木の枝が空を細く切っている。

「こんなところまで来たのか?」

パパが息を切らしている。

わかりません。

でも、福ちゃんの匂いはここへ続いています。

ボクは鼻を地面につけた。

匂いはある。

それなのに、足跡がない。

福ちゃんだけではない。猫も、鳥も、人間も、今朝ここを通った跡がなかった。

風が止まった。

葉っぱも揺れない。

鳥の声も、町の音も聞こえない。

聞こえるのは、ボクとパパの足音だけ。

ザッ、ザッ、ザッ。

パパが立ち止まると、音がひとつになった。

ザッ、ザッ、ザッ。

ボクの足音。

その奥から、もうひとつ音がした。

チリン。

鈴の音だった。

◇

切通しの先に、大きな岩があった。

岩の根元に、黒いものが見えた。

福ちゃん!

福ちゃんは苔の上に身体を丸め、眠っていた。

ボクは走り出そうとした。

そのとき、岩の上で長い尻尾が動いた。

猫だ。

白いような、灰色のような毛。

片方の耳が少し欠けている。細い目の奥だけが、朝の光を受けて金色に光っていた。

首には、古びた小さな鈴がついている。

猫は長い尻尾を前足に巻きつけ、ボクを見下ろしていた。

『来たか』

低い声だった。

福ちゃんを迎えに来ました。

『迎えに?』

そうです。

福ちゃん、起きてください。

ボクは福ちゃんへ駆け寄ろうとした。

でも、おかしい。

走っても走っても、福ちゃんとの距離が縮まらない。

すぐそこに見えるのに、岩と苔の道がどこまでも続いている。

後ろでパパが叫んだ。

「いた! 福ちゃん!」

パパも走っている。

けれど、同じ場所から一歩も進んでいない。

『人間には来られぬ道だ』

老猫が言った。

『犬のお前も、わしが許さなければ先へは進めぬ』

どうして福ちゃんを連れてきたのですか。

『わしが連れてきたのではない。この子が道を見つけた』

福ちゃんが?

そんなはずありません。

福ちゃんはひとりで散歩しません。

『この子は長いあいだ、自分を人間だと思って生きてきた』

そのとおりです。

『人間と同じ速さで歳を取り、人間と同じだけ生きるつもりでいる』

老猫は福ちゃんを見た。

『だが、犬の時間は人間より速い。身体は、そのことを知っている』

老猫の鈴が、風もないのに小さく鳴った。

『昨夜、この子の夢が切通しへ迷い込んだ』

夢?

『人間たちの話を聞いたのだ。この子も歳を取った。歩くのが遅くなった。眠っている時間が長くなったとな』

そういえば昨日、ママとパパがそんな話をしていた。

「福ちゃんも、もうおばあちゃんだから」

ママは笑って、福ちゃんの背中を撫でていた。

福ちゃんは聞こえないふりをしていた。

でも、本当は聞いていたんだ。

『この子は夢の中で尋ねた。どうして自分だけが先に歳を取るのか。どうすれば家族とずっと同じ時間を歩けるのかとな』

老猫は、眠る福ちゃんの額を尻尾の先で撫でた。

『わしは、その願いに答えただけだ』

では、福ちゃんが自分でここへ?

『身体は家に置いたまま、夢だけでこの道を歩いてきた。夜明けまでに帰らなければ、身体もこちらへ移る』

切通しの細い空を見上げると、朝の光が少しずつ強くなっていた。

時間がない。

福ちゃんを連れて帰らなければ、本当に遠いところへ行ってしまう。

福ちゃんは眠ったまま、少しだけ足を動かした。

海岸を歩いている夢でも見ているのだろうか。

『この子は疲れたのだ。自分だけが先に歳を取っていくことにな』

福ちゃんは疲れてなんかいません。

毎朝、誰より早く起きます。

『それが疲れていない証しになるのか』

なりません。

でも、朝ごはんはいつも全部食べます。

老猫は少しだけ目を細めた。

笑ったのかもしれない。

◇

『わしは、この子を遠いところへ連れていく』

遠いところ?

『そこでは歳を取らぬ。身体も痛まぬ。空腹にもならぬ』

空腹にならない?

それは少しだけ良いところかもしれない。

でも、ママのごはんが食べられない。

パパと海岸を歩けない。

ボクを起こすこともできない。

『別れもない。悲しみもない』

それでも駄目です。

福ちゃんは、うちへ帰ります。

『帰っても、やがて別れの日は来る』

老猫の声が、切通しの岩に響いた。

『人間は残り、犬は先に行く。この子はいつか、お前たちと別れなければならぬ』

別れ。

ボクには、その意味がよくわからなかった。

でも、ママが福ちゃんの首輪を握っていた顔を思い出した。

誰もいない寝床。

返事のない朝。

それが毎日続くことなら、ボクは嫌だ。

今日、福ちゃんが帰ってこない方が、もっと嫌だ。

『この子は、ここで起きたことを覚えていない』

老猫が言った。

『目を覚ましても、お前が探しに来たことも、わしに頼んだことも忘れている。それでも連れて帰りたいか』

はい。

『礼を言われることもないぞ』

いいです。

『お前のことさえ、いつか忘れるかもしれぬ』

それでもいいです。

福ちゃんが忘れたら、ボクが覚えています。

ボクが忘れたら、きっと福ちゃんが覚えていてくれます。

老猫は黙ってボクを見た。

金色の目に、ボクの小さな姿が映っている。

『なぜ、それほどこの子を連れ帰りたい』

福ちゃんは、うるさいです。

毎朝、まだ暗いうちにボクを起こします。

散歩では、歩き方がなっていないと注意します。

ごはんを早く食べると、もっと味わえと言います。

ママの隣は自分の場所だと、いつも威張っています。

パパが酔っぱらうと、いちばん冷たい目で見ます。

老猫のひげが、少しだけ動いた。

『困った犬だな』

はい。

とても困った福ちゃんです。

でも、眠る前には家族が全員いるか、必ず確かめます。

ボクが迷子になったとき、福ちゃんが迎えに来てくれました。

だから今日は、ボクが迎えに来たんです。

◇

切通しの奥で、風が動いた。

木の葉が一枚、老猫とボクの間へ落ちた。

『この子を連れ帰れば、何でもない日々が戻るだけだぞ』

それでいいです。

『同じ海岸を歩き、同じものを食べ、同じ場所で眠る』

はい。

『そんなもののために、別れのある方を選ぶのか』

そんなものではありません。

今日の散歩が、まだ終わっていません。

福ちゃんと一緒に帰らないと、散歩は終わりません。

老猫は長いあいだ黙っていた。

やがて岩から下り、福ちゃんのそばへ歩いた。

チリン。

首の鈴が鳴る。

『ならば、家で呼ぶように、この子の名を呼べ』

ボクは大きく息を吸った。

福ちゃん!

起きてください!

帰りますよ!

福ちゃんの耳が、ぴくりと動いた。

もう一度。

福ちゃん!

ごはんの時間です!

福ちゃんが片方の目を開けた。

『……ごはん?』

次の瞬間、道が元に戻った。

福ちゃんはすぐ目の前にいた。

パパが駆け寄り、福ちゃんを抱き上げた。

「福ちゃん! よかった! こんなところで何してたんだ!」

福ちゃんはパパの腕の中で、不機嫌そうに瞬きをした。

『何って、寝てただけよ』

どうやってここへ来たんですか。

『ここ?』

福ちゃんは周りを見回した。

『ここ、どこよ』

覚えていない。

老猫の言ったとおりだった。

ボクが岩の方を見ると、もう誰もいなかった。

濡れた苔の上に、小さな足跡がひとつだけ残っていた。

◇

家へ戻ると、ママが玄関から飛び出してきた。

「福ちゃん!」

パパから福ちゃんを奪うように抱き取り、その場に座り込んだ。

「どこ行ってたの! どうやって出たの! 心配したんだから!」

ママは福ちゃんの顔を両手で挟み、泣きながら何度も頬ずりした。

『ちょっとママ。苦しい。顔が濡れるじゃない』

福ちゃんは、とても迷惑そうな顔をしている。

でも逃げようとはしなかった。

「リキが見つけたんだ」

パパが言った。

「真っすぐ切通しまで連れていった。すごかったぞ」

ママは福ちゃんを抱いたまま、ボクの頭を撫でた。

「リキ、ありがとう」

いいんです。

福ちゃんが帰ってきたので、ごはんにしてください。

『やっぱり、ごはんのことしか考えてないのね』

福ちゃんが、いつもの声で言った。

その声を聞いて、ママとパパが笑った。

もちろん二人には、福ちゃんの言葉は聞こえていない。

でも、福ちゃんがいつもの顔に戻ったことはわかったらしい。

◇

次の日の朝。

チュンチュン、チュンチュン……。

『リキ、起きなさいよ』

福ちゃんの声がした。

はい。

起きています。

『何よ、今日はずいぶん素直ね』

二人と二匹で、逗子海岸へ向かった。

福ちゃんはママの横。

ボクはパパの横。

昨日と同じ道。昨日と同じ潮の匂い。

パン屋から流れてくる焼きたての匂いも、角の電柱の匂いも、全部いつもと同じだった。

海岸へ出ると、朝の光が水の上で揺れていた。

ザザーン。

波が白い泡を伸ばし、ボクたちの足元まで来て逃げていく。

ボクは砂浜の途中で立ち止まった。

山の方から、濡れた土と苔の匂いがした。

遠くの石垣の上に、白いような灰色のような猫が座っていた。

金色の目が、こちらを見ている。

チリン。

風の中で、小さな鈴が鳴った。

瞬きをすると、猫はもういなかった。

『リキ、何をぼんやりしてるの。置いていくわよ』

待ってください、福ちゃん。

ボクは家族の後を追った。

福ちゃんは、昨日のことを何も覚えていない。

それでいい。

福ちゃんが忘れても、ボクが覚えている。

ボクが忘れたら、きっと福ちゃんが覚えていてくれる。

ザザーン。

いつもの波が来て、四人分の足跡を消していく。

それでもボクたちは、また四人で新しい足跡をつけながら歩いていく。

名前を呼び合い、ときどき喧嘩をして、同じ家へ帰る。

いつもの、何でもない散歩道を。

完

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