リキの大事件
カチャ。
ほんの小さな音だった。
玄関の向こうで、門が風に押されて少し開いた音。
その日は、夏の終わりの暑い午後だった。
海から帰ったボクは、庭で身体を洗われたばかり。濡れた首輪は物干し竿にぶら下がり、ボクは首のまわりがすうすうしていた。
ママは台所で何かを刻んでいる。
パパは玄関の前で、クルマから荷物を降ろしている。
福ちゃんは、冷たい床にお腹をつけて昼寝中。
誰も、少しだけ開いた門を見ていなかった。
門の隙間から、いい匂いが入ってきた。
どこかの家の焼き魚。
道を歩いた猫。
海から吹いてくる風。
ボクは鼻先で門を押した。
カチャ。
門は、もう少し開いた。
外に出るつもりはなかった。
ただ、匂いの正体を確かめたかっただけだ。
前足をひとつ、門の外へ出した。
後ろ足も出した。
振り返る。
パパはまだ、クルマの向こうにいる。
少しだけなら、大丈夫。
ほんの少しだけ。
◇
首輪のない散歩は、軽かった。
リードもない。
右へ行っても、誰にも引っ張られない。
電柱の匂いを好きなだけ嗅いでも、「リキ、長い!」と言われない。
急に走っても、後ろでパパがよろけない。
ボクは角を曲がり、細い道を駆けた。
楽しい。
身体が風になったみたいだ。
いつも気になっていた植木鉢の裏を調べた。猫の通り道を追いかけた。パン屋の前で立ち止まり、落ちていないパンの匂いまで丁寧に嗅いだ。
道の向こうに犬がいた。
いつかボクに「よそ者」と言った白い犬だ。
『あれ? 今日はひとりか』
ひとりじゃないよ。
パパは、すぐ後ろに……。
振り返った。
誰もいなかった。
細い道が、真っすぐ家の間へ続いているだけだった。
パパ?
ボクは耳を立てた。
荷物を置く音もしない。
「リキ、待て」の声もしない。
白い犬が、塀の向こうから鼻を鳴らした。
『迷子になったんじゃないのか』
迷子じゃありません。
散歩です。
首輪のない、特別な散歩です。
そう言って歩き出したけれど、さっきまで軽かった足が、少しだけ重くなった。
家へ戻ればいい。
来た道を戻るだけだ。
簡単だ。
……どの角を曲がってきたんだっけ。
◇
逗子の町は、小さい。
パパはいつもそう言う。
でも、ひとりで歩く逗子は大きかった。
似たような細い道。
似たような生け垣。
知らない家の門。
人の足音がするたびに顔を上げた。でも、どれもパパの靴ではなかった。
ボクは鼻を地面につけた。
自分の匂いを探す。
潮の匂いが、いろんなものを薄くしている。クルマが通れば風が巻き、匂いの道はすぐにちぎれた。
おかしいな。
いつもの海へ行けば、パパに会えるかもしれない。
ボクは潮の濃い方へ歩いた。
けれど途中で、揚げ物の匂いに引かれて曲がり、知らない自転車に驚いてまた曲がった。庭の犬に吠えられて走り、気がつくと海の匂いは背中の方からしていた。
喉が渇いた。
お腹も空いた。
ママなら、もう晩ごはんの用意を始めているころだ。
福ちゃんは、ボクがいない方が静かでいいと思っているかな。
パパは?
まだ荷物を運んでいるのかな。
それとも、ボクがいないことに気づいたかな。
急に胸の奥が、きゅっと小さくなった。
河原にいたころは、ひとりでも平気だった。
黒い長靴のおにーさんがいない夜も、丸くなって朝を待った。
なのに今は、ひとりがこんなに静かで、こんなに怖い。
ボクは走った。
どこへ行けばいいのかわからないまま、走った。
◇
カンカンカンカン……。
足が止まった。
聞いたことのある音。
カンカンカンカン……。
赤い光が点滅し、細長い棒が道をふさいでいく。
人も自転車も、棒の前で止まった。
来る。
奴だ。
逗子にはいないと思っていた、大きな怪物。
家と家の間から、地面を震わせる音が近づいてくる。
ガタゴトン、ガタゴトン、ガタゴトン!
大きな奴だ!
銀色の身体に青い線をつけた横須賀線の電車が、ものすごい風を連れて目の前を走り抜けた。
ボクは踏切から離れ、道の端で身体を小さくした。
耳を伏せても音が入ってくる。
河原で眠っていたころと同じ音。
あのころは、怪物が通り過ぎれば、それでよかった。
でも今は違う。
パパがいない。
ママがいない。
福ちゃんもいない。
首輪もない。
ボクがリキだとわかるものが、何もない。
通り過ぎる人が、ちらちらとボクを見た。
「あら、あの犬、ひとり?」
「首輪してないぞ」
知らない手が伸びてきた。
ボクは怖くなって、また走った。
大きなアミ。
鉄の檻。
冷たくて暗い部屋。
忘れていた匂いが、一度に鼻の奥へ戻ってきた。
また捕まったら、どうなるんだろう。
あのおばーちゃんは、もう一度ボクを指差してくれるだろうか。
ママとパパは、ボクを見つけられるだろうか。
ボクは、またチャカ男に戻るのだろうか。
いやだ。
ボクはリキだ。
パパとママがつけてくれた名前だ。
ボクは、うちの子なんだ。
そう思ったら、帰りたい気持ちが身体いっぱいに広がった。
ごはんの器が置いてある台所へ。
福ちゃんが偉そうに寝ている部屋へ。
パパが「散歩」と言うたび、うれしくて飛びついてしまう玄関へ。
ママが、何度叱っても最後には頭を撫でてくれる家へ。
ボクは帰りたい。
自由になりたくて出たはずなのに、今はリードの先にいるパパを探していた。
◇
そのころ家では、福ちゃんが昼寝から起きていた。
『ねえママ。あのうるさいの、どこ?』
庭にもいない。
玄関にもいない。
ママが開いた門を見つけた。
包丁を置く音。
「パパ! リキがいない!」
荷物が地面に落ちる音。
「えっ? さっきまでそこに……」
「首輪はここよ! どうするの、何もつけてない!」
ママとパパは、別々の道を走った。
海へ向かう道。駅へ向かう道。いつもの散歩道。
近所の人に聞き、交番にも知らせた。
「柴犬です。茶色で、ちょっと太っていて……首輪はしてません」
説明するたび、ママの声は細くなった。
クルマの音がすれば道をのぞき、遠くで犬が鳴けば足を止めた。
ママの頭には、見たくない景色ばかりが浮かんだ。赤い踏切。走るクルマ。ひとりでうずくまるリキ。知らない誰かに追われるリキ。
ついこの前、「うちの子にする」と決めたばかりなのに。
ずっと守ると決めたばかりなのに。
「私がちゃんと見ていれば……」
「ママのせいじゃない。門を閉めなかった俺だ」
パパはそう言ったが、その顔も青かった。
『二人とも、立ち止まってる場合じゃないわよ』
福ちゃんが強くリードを引いた。
ママは涙を手の甲でぬぐい、もう一度走り出した。
パパは名前を呼び続けた。
「リキー! リキ!」
ママは福ちゃんにリキの匂いを嗅がせた。
「福ちゃん、お願い。リキを探して」
『まったく。どうしてアタイが』
そう言いながら、福ちゃんの鼻は忙しく動いた。
門の前。
角の電柱。
猫の通り道。
途中で何度も匂いを失い、そのたびに戻って確かめた。
福ちゃんは、いつもの海岸ではなく、線路の方へママを引っ張った。
『こっちよ。あの子、途中から怖くなって走ってる』
もちろん、ママにはその言葉は聞こえない。
でも福ちゃんの引く方へ、息を切らして走った。
◇
夕方の空が、少しずつ赤くなっていた。
ボクは、海へ続く知らない路地で立ち止まった。
もう走れない。
足の裏が痛い。
どこかの家から、晩ごはんの匂いがした。
その匂いの中に、ほんの少しだけ、知っている匂いが混ざった。
ママだ。
汗と、せっけんと、いつもボクのごはんをよそう手の匂い。
ボクは顔を上げた。
遠くで、声がした。
「リキー!」
パパだ。
「リキ! どこだ!」
パパ!
ここです!
ワン!
声を出したつもりだった。でも喉が乾いて、情けない音しか出なかった。
もう一度。
ワン! ワン!
路地の向こうで、黒い影が止まった。
福ちゃん。
ママの手からリードが伸びきる。ママが金具を外すと、福ちゃんは黒い弾みたいに走ってきた。
『リキ!』
福ちゃん!
『何やってんのよ!』
怒っている。
耳も、尻尾も、足音まで怒っている。
『勝手に出ていくなんて、何考えてるの! みんなでどれだけ探したと思ってるのよ!』
ごめんなさい。
『謝るのはアタイじゃない! 帰るよ!』
福ちゃんはボクの鼻先を一度だけ強く嗅いだ。
それから、誰にも見えないくらい一瞬、ボクの頬に自分の頬をくっつけた。
『……無事でよかった』
小さな声だった。
そのすぐ後ろから、ママが走ってきた。
怖い顔だった。
今まで見た、どんなママより怖い顔。
だけど、顔じゅう涙でぐしゃぐしゃだった。
◇
「リキ!」
ママはボクの首根っこをしっかりつかんだ。
そのまま地面に膝をつき、ボクを抱きしめた。
痛いくらい強く。
「ひかれたらどーすんの!」
ごめんなさい。
「どこ行こうとしたの!」
ちょっと、匂いを確かめようと……。
「また保健所に保護されたら、今度はもうないよ!」
ママの声が震えた。
「今度だって、誰かが助けてくれるとは限らないんだよ!」
ボクの頭に、ママの涙がぽたぽた落ちた。
「しんじゃうんだよ!」
最後は怒鳴り声ではなく、泣き声になった。
ママは大きな声で泣いた。
子どもみたいに、何度も息を詰まらせて泣いた。
パパはその後ろで、うん、うん、と何度もうなずいている。
「そうだぞ、リキ。駄目だぞ。ほんとに……」
パパも目が赤い。
福ちゃんは少し離れたところに座り、海の方を見ていた。
『まったく、世話が焼けるんだから』
声はいつものように偉そうだった。
でも、尻尾だけが地面を忙しく叩いていた。
ボクはママの手を舐めた。
しょっぱかった。
ママ、ごめんなさい。
もう勝手に行きません。
首輪のない散歩は、最初だけ楽しかった。
パパが後ろにいない散歩は、散歩ではなかった。
◇
パパが持ってきた予備の首輪をつけてもらった。
カチッ。
首のまわりに、いつもの重さが戻った。
さっきまでは何もないのが自由だと思ったのに、その小さな重さが、今はとても安心だった。
とぼとぼと、二人と二匹で帰った。
空はすっかり夕方の色になっていた。
海岸沿いの道へ出ると、風がママの涙の匂いを少しずつ運んでいった。
パパはボクのリードを両手で握っている。
ママは福ちゃんのリードを持ちながら、何度もボクを振り返った。
そのたびにボクと目が合う。
ママは怒った顔をつくる。
でもすぐに、また泣きそうな顔になる。
福ちゃんは前だけ見て歩いている。
『今日は本当にひどい目にあったわ』
ごめんなさい。
『アタイ、お昼寝の途中だったのよ』
そこですか?
『そこもよ』
福ちゃんは少しだけ歩調をゆるめ、ボクと並んだ。
ザザーン。
ザザザザザ……。
波の音がした。
怪物とは違う、いつもの音。
ボクたちの町の音。
しばらく誰もしゃべらなかった。
やがてママが、鼻をすすって言った。
「……晩ご飯、どうしよう」
パパが海岸の方を見た。
「海の家、まだやってるかな。ビール飲んで帰るか」
「この騒ぎのあとにビール?」
「無事に見つかった祝い」
「誰のせいで門が開いてたと思ってるの」
パパの足が止まった。
「……すみません」
『そうよ。パパも反省なさい』
福ちゃんが鼻を鳴らした。
ママはまた泣くのかと思った。
でも、ふっと息を漏らし、少しだけ笑った。
◇
海の家は、まだ開いていた。
砂浜に近い外の席に、二人と二匹で座った。
パパの前には冷たいビール。
ママの前にはジュース。
テーブルの上には焼きそばと、枝豆と、ボクたちにはもらえない味の濃そうなもの。
ボクと福ちゃんには、お水が出てきた。
ペチャペチャペチャ。
おいしい。
生き返る。
「リキ、今日はごはん抜きだからね」
えっ。
ママ、そこは別のお話では?
「冗談よ」
ママはボクの頭を撫でた。
「ちゃんとうちで食べよう。帰ったらね」
うち。
その言葉を聞くと、胸の小さくなっていたところが、ゆっくり元に戻った。
『あのね、リキ』
福ちゃんがテーブルの下で言った。
『外へ出るなら、ちゃんと家族を連れていくの。わかった?』
はい。
『それから、アタイより先に走らないこと』
それも?
『敎育係の言うことは絶対よ』
福ちゃんは、いつものドヤ顔をした。
でも今日は、その顔を見ても少しもうるさいと思わなかった。
やがて海の向こうの明かりが、ひとつ、またひとつと増えていった。
パパがビールを飲み終わり、立ち上がった。
「さあ、帰るぞ。福ちゃん、リキ」
カチッ。
パパがボクのリードを持った。
ボクは、その手を確かめてから歩き出した。
首輪のない自由な散歩より、ボクはこの帰り道が好きだ。
名前を呼んでくれる人がいる。
怒って、泣いて、探してくれる人がいる。
迎えに来てくれる福ちゃんがいる。
大きな怪物は、逗子にもいた。
でも、もう大丈夫。
怪物がどこにいても、ボクには帰る場所がある。
そしてそこでは、今夜もボクのごはんが待っている。
最終章(第4章)につづく


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