四人の足跡(3)――保護犬リキが家族になるまで

小説

リキの大事件

カチャ。

ほんの小さな音だった。

玄関の向こうで、門が風に押されて少し開いた音。

その日は、夏の終わりの暑い午後だった。

海から帰ったボクは、庭で身体を洗われたばかり。濡れた首輪は物干し竿にぶら下がり、ボクは首のまわりがすうすうしていた。

ママは台所で何かを刻んでいる。

パパは玄関の前で、クルマから荷物を降ろしている。

福ちゃんは、冷たい床にお腹をつけて昼寝中。

誰も、少しだけ開いた門を見ていなかった。

門の隙間から、いい匂いが入ってきた。

どこかの家の焼き魚。

道を歩いた猫。

海から吹いてくる風。

ボクは鼻先で門を押した。

カチャ。

門は、もう少し開いた。

外に出るつもりはなかった。

ただ、匂いの正体を確かめたかっただけだ。

前足をひとつ、門の外へ出した。

後ろ足も出した。

振り返る。

パパはまだ、クルマの向こうにいる。

少しだけなら、大丈夫。

ほんの少しだけ。

◇

首輪のない散歩は、軽かった。

リードもない。

右へ行っても、誰にも引っ張られない。

電柱の匂いを好きなだけ嗅いでも、「リキ、長い!」と言われない。

急に走っても、後ろでパパがよろけない。

ボクは角を曲がり、細い道を駆けた。

楽しい。

身体が風になったみたいだ。

いつも気になっていた植木鉢の裏を調べた。猫の通り道を追いかけた。パン屋の前で立ち止まり、落ちていないパンの匂いまで丁寧に嗅いだ。

道の向こうに犬がいた。

いつかボクに「よそ者」と言った白い犬だ。

『あれ? 今日はひとりか』

ひとりじゃないよ。

パパは、すぐ後ろに……。

振り返った。

誰もいなかった。

細い道が、真っすぐ家の間へ続いているだけだった。

パパ?

ボクは耳を立てた。

荷物を置く音もしない。

「リキ、待て」の声もしない。

白い犬が、塀の向こうから鼻を鳴らした。

『迷子になったんじゃないのか』

迷子じゃありません。

散歩です。

首輪のない、特別な散歩です。

そう言って歩き出したけれど、さっきまで軽かった足が、少しだけ重くなった。

家へ戻ればいい。

来た道を戻るだけだ。

簡単だ。

……どの角を曲がってきたんだっけ。

◇

逗子の町は、小さい。

パパはいつもそう言う。

でも、ひとりで歩く逗子は大きかった。

似たような細い道。

似たような生け垣。

知らない家の門。

人の足音がするたびに顔を上げた。でも、どれもパパの靴ではなかった。

ボクは鼻を地面につけた。

自分の匂いを探す。

潮の匂いが、いろんなものを薄くしている。クルマが通れば風が巻き、匂いの道はすぐにちぎれた。

おかしいな。

いつもの海へ行けば、パパに会えるかもしれない。

ボクは潮の濃い方へ歩いた。

けれど途中で、揚げ物の匂いに引かれて曲がり、知らない自転車に驚いてまた曲がった。庭の犬に吠えられて走り、気がつくと海の匂いは背中の方からしていた。

喉が渇いた。

お腹も空いた。

ママなら、もう晩ごはんの用意を始めているころだ。

福ちゃんは、ボクがいない方が静かでいいと思っているかな。

パパは?

まだ荷物を運んでいるのかな。

それとも、ボクがいないことに気づいたかな。

急に胸の奥が、きゅっと小さくなった。

河原にいたころは、ひとりでも平気だった。

黒い長靴のおにーさんがいない夜も、丸くなって朝を待った。

なのに今は、ひとりがこんなに静かで、こんなに怖い。

ボクは走った。

どこへ行けばいいのかわからないまま、走った。

◇

カンカンカンカン……。

足が止まった。

聞いたことのある音。

カンカンカンカン……。

赤い光が点滅し、細長い棒が道をふさいでいく。

人も自転車も、棒の前で止まった。

来る。

奴だ。

逗子にはいないと思っていた、大きな怪物。

家と家の間から、地面を震わせる音が近づいてくる。

ガタゴトン、ガタゴトン、ガタゴトン!

大きな奴だ!

銀色の身体に青い線をつけた横須賀線の電車が、ものすごい風を連れて目の前を走り抜けた。

ボクは踏切から離れ、道の端で身体を小さくした。

耳を伏せても音が入ってくる。

河原で眠っていたころと同じ音。

あのころは、怪物が通り過ぎれば、それでよかった。

でも今は違う。

パパがいない。

ママがいない。

福ちゃんもいない。

首輪もない。

ボクがリキだとわかるものが、何もない。

通り過ぎる人が、ちらちらとボクを見た。

「あら、あの犬、ひとり?」

「首輪してないぞ」

知らない手が伸びてきた。

ボクは怖くなって、また走った。

大きなアミ。

鉄の檻。

冷たくて暗い部屋。

忘れていた匂いが、一度に鼻の奥へ戻ってきた。

また捕まったら、どうなるんだろう。

あのおばーちゃんは、もう一度ボクを指差してくれるだろうか。

ママとパパは、ボクを見つけられるだろうか。

ボクは、またチャカ男に戻るのだろうか。

いやだ。

ボクはリキだ。

パパとママがつけてくれた名前だ。

ボクは、うちの子なんだ。

そう思ったら、帰りたい気持ちが身体いっぱいに広がった。

ごはんの器が置いてある台所へ。

福ちゃんが偉そうに寝ている部屋へ。

パパが「散歩」と言うたび、うれしくて飛びついてしまう玄関へ。

ママが、何度叱っても最後には頭を撫でてくれる家へ。

ボクは帰りたい。

自由になりたくて出たはずなのに、今はリードの先にいるパパを探していた。

◇

そのころ家では、福ちゃんが昼寝から起きていた。

『ねえママ。あのうるさいの、どこ?』

庭にもいない。

玄関にもいない。

ママが開いた門を見つけた。

包丁を置く音。

「パパ! リキがいない!」

荷物が地面に落ちる音。

「えっ? さっきまでそこに……」

「首輪はここよ! どうするの、何もつけてない!」

ママとパパは、別々の道を走った。

海へ向かう道。駅へ向かう道。いつもの散歩道。

近所の人に聞き、交番にも知らせた。

「柴犬です。茶色で、ちょっと太っていて……首輪はしてません」

説明するたび、ママの声は細くなった。

クルマの音がすれば道をのぞき、遠くで犬が鳴けば足を止めた。

ママの頭には、見たくない景色ばかりが浮かんだ。赤い踏切。走るクルマ。ひとりでうずくまるリキ。知らない誰かに追われるリキ。

ついこの前、「うちの子にする」と決めたばかりなのに。

ずっと守ると決めたばかりなのに。

「私がちゃんと見ていれば……」

「ママのせいじゃない。門を閉めなかった俺だ」

パパはそう言ったが、その顔も青かった。

『二人とも、立ち止まってる場合じゃないわよ』

福ちゃんが強くリードを引いた。

ママは涙を手の甲でぬぐい、もう一度走り出した。

パパは名前を呼び続けた。

「リキー! リキ!」

ママは福ちゃんにリキの匂いを嗅がせた。

「福ちゃん、お願い。リキを探して」

『まったく。どうしてアタイが』

そう言いながら、福ちゃんの鼻は忙しく動いた。

門の前。

角の電柱。

猫の通り道。

途中で何度も匂いを失い、そのたびに戻って確かめた。

福ちゃんは、いつもの海岸ではなく、線路の方へママを引っ張った。

『こっちよ。あの子、途中から怖くなって走ってる』

もちろん、ママにはその言葉は聞こえない。

でも福ちゃんの引く方へ、息を切らして走った。

◇

夕方の空が、少しずつ赤くなっていた。

ボクは、海へ続く知らない路地で立ち止まった。

もう走れない。

足の裏が痛い。

どこかの家から、晩ごはんの匂いがした。

その匂いの中に、ほんの少しだけ、知っている匂いが混ざった。

ママだ。

汗と、せっけんと、いつもボクのごはんをよそう手の匂い。

ボクは顔を上げた。

遠くで、声がした。

「リキー!」

パパだ。

「リキ! どこだ!」

パパ!

ここです!

ワン!

声を出したつもりだった。でも喉が乾いて、情けない音しか出なかった。

もう一度。

ワン! ワン!

路地の向こうで、黒い影が止まった。

福ちゃん。

ママの手からリードが伸びきる。ママが金具を外すと、福ちゃんは黒い弾みたいに走ってきた。

『リキ!』

福ちゃん!

『何やってんのよ!』

怒っている。

耳も、尻尾も、足音まで怒っている。

『勝手に出ていくなんて、何考えてるの! みんなでどれだけ探したと思ってるのよ!』

ごめんなさい。

『謝るのはアタイじゃない! 帰るよ!』

福ちゃんはボクの鼻先を一度だけ強く嗅いだ。

それから、誰にも見えないくらい一瞬、ボクの頬に自分の頬をくっつけた。

『……無事でよかった』

小さな声だった。

そのすぐ後ろから、ママが走ってきた。

怖い顔だった。

今まで見た、どんなママより怖い顔。

だけど、顔じゅう涙でぐしゃぐしゃだった。

◇

「リキ!」

ママはボクの首根っこをしっかりつかんだ。

そのまま地面に膝をつき、ボクを抱きしめた。

痛いくらい強く。

「ひかれたらどーすんの!」

ごめんなさい。

「どこ行こうとしたの!」

ちょっと、匂いを確かめようと……。

「また保健所に保護されたら、今度はもうないよ!」

ママの声が震えた。

「今度だって、誰かが助けてくれるとは限らないんだよ!」

ボクの頭に、ママの涙がぽたぽた落ちた。

「しんじゃうんだよ!」

最後は怒鳴り声ではなく、泣き声になった。

ママは大きな声で泣いた。

子どもみたいに、何度も息を詰まらせて泣いた。

パパはその後ろで、うん、うん、と何度もうなずいている。

「そうだぞ、リキ。駄目だぞ。ほんとに……」

パパも目が赤い。

福ちゃんは少し離れたところに座り、海の方を見ていた。

『まったく、世話が焼けるんだから』

声はいつものように偉そうだった。

でも、尻尾だけが地面を忙しく叩いていた。

ボクはママの手を舐めた。

しょっぱかった。

ママ、ごめんなさい。

もう勝手に行きません。

首輪のない散歩は、最初だけ楽しかった。

パパが後ろにいない散歩は、散歩ではなかった。

◇

パパが持ってきた予備の首輪をつけてもらった。

カチッ。

首のまわりに、いつもの重さが戻った。

さっきまでは何もないのが自由だと思ったのに、その小さな重さが、今はとても安心だった。

とぼとぼと、二人と二匹で帰った。

空はすっかり夕方の色になっていた。

海岸沿いの道へ出ると、風がママの涙の匂いを少しずつ運んでいった。

パパはボクのリードを両手で握っている。

ママは福ちゃんのリードを持ちながら、何度もボクを振り返った。

そのたびにボクと目が合う。

ママは怒った顔をつくる。

でもすぐに、また泣きそうな顔になる。

福ちゃんは前だけ見て歩いている。

『今日は本当にひどい目にあったわ』

ごめんなさい。

『アタイ、お昼寝の途中だったのよ』

そこですか?

『そこもよ』

福ちゃんは少しだけ歩調をゆるめ、ボクと並んだ。

ザザーン。

ザザザザザ……。

波の音がした。

怪物とは違う、いつもの音。

ボクたちの町の音。

しばらく誰もしゃべらなかった。

やがてママが、鼻をすすって言った。

「……晩ご飯、どうしよう」

パパが海岸の方を見た。

「海の家、まだやってるかな。ビール飲んで帰るか」

「この騒ぎのあとにビール?」

「無事に見つかった祝い」

「誰のせいで門が開いてたと思ってるの」

パパの足が止まった。

「……すみません」

『そうよ。パパも反省なさい』

福ちゃんが鼻を鳴らした。

ママはまた泣くのかと思った。

でも、ふっと息を漏らし、少しだけ笑った。

◇

海の家は、まだ開いていた。

砂浜に近い外の席に、二人と二匹で座った。

パパの前には冷たいビール。

ママの前にはジュース。

テーブルの上には焼きそばと、枝豆と、ボクたちにはもらえない味の濃そうなもの。

ボクと福ちゃんには、お水が出てきた。

ペチャペチャペチャ。

おいしい。

生き返る。

「リキ、今日はごはん抜きだからね」

えっ。

ママ、そこは別のお話では?

「冗談よ」

ママはボクの頭を撫でた。

「ちゃんとうちで食べよう。帰ったらね」

うち。

その言葉を聞くと、胸の小さくなっていたところが、ゆっくり元に戻った。

『あのね、リキ』

福ちゃんがテーブルの下で言った。

『外へ出るなら、ちゃんと家族を連れていくの。わかった?』

はい。

『それから、アタイより先に走らないこと』

それも?

『敎育係の言うことは絶対よ』

福ちゃんは、いつものドヤ顔をした。

でも今日は、その顔を見ても少しもうるさいと思わなかった。

やがて海の向こうの明かりが、ひとつ、またひとつと増えていった。

パパがビールを飲み終わり、立ち上がった。

「さあ、帰るぞ。福ちゃん、リキ」

カチッ。

パパがボクのリードを持った。

ボクは、その手を確かめてから歩き出した。

首輪のない自由な散歩より、ボクはこの帰り道が好きだ。

名前を呼んでくれる人がいる。

怒って、泣いて、探してくれる人がいる。

迎えに来てくれる福ちゃんがいる。

大きな怪物は、逗子にもいた。

でも、もう大丈夫。

怪物がどこにいても、ボクには帰る場所がある。

そしてそこでは、今夜もボクのごはんが待っている。

最終章(第4章)につづく

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