第二章
逗子という町
ザザーン。
ザザザザザ……。
怪物だ。
ボクは立ち止まり、砂の上で足を踏ん張った。
だけど、河原で見たあの怪物とは少し違う。
カンカンとも、ガタゴトンとも言わない。長い身体もない。ボクの前まで白い泡を伸ばしてきて、足の先を濡らすと、すぐに逃げていく。
ザザザザザ……。
また来た。
今度は、さっきより少し大きい。
闘うか?
ボクが一歩前へ出ると、そいつはボクの足元で砕け、何もなかったみたいに海へ帰っていった。
勝った。
『何やってるのよ、リキ』
福ちゃんが、少し離れたところから呆れた顔で見ている。
あいつとと闘っているんです。
『あいつ?波?ふふふ。波は闘うものじゃないわよ』
そうなの?
『見ればわかるでしょう。いくら追い払っても、また来るじゃない』
本当だ。
次の波が、もう来ている。
ボクはもう一度、前足で白い泡を叩いた。
『全然わかってないわね』
福ちゃんはそう言いながら、濡れないところまで二歩下がった。
◇
ここは、逗子という町らしい。
海と山の間に、家や店や細い道がぎゅっと集まっている。大きな町ではない。でも、散歩をすると、毎日違う匂いがした。
潮の匂い。
魚の匂い。
パン屋から流れてくる、焼きたての匂い。
雨の前には、山から湿った土と葉っぱの匂いが下りてくる。
あとでパパが教えてくれた。
逗子は三浦半島の付け根にある、六万人くらいの小さな町なのだそうだ。明治という昔から、暑い夏を涼しく過ごすために人が訪れ、海の近くには別荘がたくさん建てられたという。
べっそう。
おいしそうな響きだけれど、食べ物ではないらしい。
古い木の塀の向こうに、大きな庭を持つ家があった。瓦の屋根。潮風で少し白くなった板壁。ママはそこを通るたび、「昔はこんなおうちがたくさんあったのよ」と言った。
ボクには、昔のことはわからない。
でも、この町では時間がゆっくり歩いているような気がした。
河原にいたころは、遠くの音にいつも耳を立てていた。大きな怪物が来ないか。知らない人が近づいてこないか。眠っていても、身体のどこかは起きていた。
逗子では、朝になるとママが首輪を持ってくる。
「リキ、海へ行くよ」
その声を聞けば、何も考えずに玄関へ走ればよかった。
◇
逗子海岸は、ボクの大好きな散歩道になった。
砂浜は長く、海は大きい。波はたいてい穏やかだった。朝は人が少なく、鳥の足跡と犬の足跡が砂の上で交差していた。
福ちゃんは、濡れるのが嫌いだ。
波が来ても届かない場所を選び、上品そうに歩く。
ボクは違う。
海から何かが流れてくれば、すぐに確かめる。
木の枝。
海藻。
誰かが忘れたボール。
ときどき、食べられそうなもの。
「リキ! 拾い食いしない!」
ママの声が飛んでくる。
食べられるかどうか確認しているだけなのに。
散歩の終わりには、パパが波打ち際まで一緒に走ってくれた。
「行くぞ、リキ!」
ボクが走ると、パパも走る。福ちゃんとママは、後ろからゆっくりついてきた。
波に前足を入れ、砂を蹴って戻る。身体についた水を、思い切りブルブルッと飛ばした。
『きゃっ! ちょっとリキ!』
福ちゃんの黒い毛に、水の粒がたくさん光った。
ごめんなさい。
でも福ちゃん、少し涼しそうです。
『そういう問題じゃないわよ!』
ママが笑い、パパも笑った。
ボクも楽しくなって、もう一度波の方へ走った。
夕方には、海の向こうの空が赤くなった。晴れた日には、遠くに江の島が見え、そのもっと向こうに大きな富士山が浮かぶこともあった。
ボクは景色より、砂の下に埋まった匂いの方が気になった。でも、パパとママが立ち止まるので、ボクも一緒に海を見た。
パパとママ。
福ちゃん。
そして、ボク。
砂の上には、四人分の足跡が並んでいた。
◇
海に行かない日は、山の方へ歩いた。
鎌倉と逗子の間には、山を削ってつくられた古い道がある。名越切通という道だ。
両側から土と岩の壁が迫り、空が細く見える。木の根が地面から指のように出ていて、雨のあとは落ち葉がしっとり濡れていた。
そこには、海とはまったく違う匂いがあった。
苔。土。昔の木。小さな動物。
どこかに猫もいる。
ボクは鼻を地面につけたまま、右へ左へ進んだ。
「リキ、引っ張るなって!」
後ろでパパが声を上げる。
急いでいるのではありません。
調べることが多いのです。
『あんたの散歩は落ち着かないのよ』
福ちゃんはパパの横を、同じ速さで歩いている。
『散歩っていうのはね、連れている人に合わせるものなの』
さすが福ちゃん。
偉そうに言うだけあって、歩く姿も偉そうだ。
切通を抜けると、遠くから町の音が戻ってきた。
あの大きな怪物の音はしない。
少なくとも、海や山を歩いている間は聞こえない。
逗子という町には、ボクを追いかける怪物はいない。
そう思っていた。
◇
怪物の代わりに、困る相手がいた。
近所の犬たちだ。
散歩の途中で会うと、みんなボクをじろじろ見た。
『あいつ、誰だ?』
『知らない匂いがする』
『河原にいた犬だって』
『太ってるな』
『首輪も上手にできないくせに』
聞こえないふりをしようと思う。
福ちゃんも、『放っておきなさい』と言う。
でも、「河原にいた犬」と言われると、胸の奥がざらざらした。
ボクだって、好きで河原にいたんじゃない。
ボクだって、いまは朝と夜にごはんを食べている。
ボクにだって、リキという名前がある。
『やーい、よそ者』
その一言で、身体が先に動いた。
ヴーッ!
ワンワンワン!
ボクは相手に向かって走った。リードがぴんと張り、パパの身体が前へ引かれた。
「うわっ! リキ、駄目だ!」
向こうの犬も吠えた。
飼い主たちは慌てて犬を引き離す。
「すみません!」「大丈夫ですか?」
ボクは悪くない。
あいつが先に悪口を言ったんだ。
でも、人間には犬の言葉がわからない。
人間に見えたのは、何もしていない犬に突然飛びかかろうとした、乱暴なボクだけだった。
「どうしたんだよ、リキ。仲良くしろよ」
パパが困った顔で言う。
違うよ、パパ。
あいつが言ったんだ。
ボクは家の犬じゃないって。
でも、説明する言葉が見つからなかった。
◇
それから、ボクは週に二度、犬の幼稚園へ行くことになった。
名前は「ほめほめホーム」。
最初に連れていかれた日、知らない犬の匂いがしたので、入口で踏ん張った。
「大丈夫。ここは怒られに来るところじゃないよ」
ゆか先生はしゃがみ、手のひらに小さなおやつをのせた。
いい人だ。
いい人かどうかは、だいたい匂いとおやつでわかる。
「リキ、おすわり」
おすわり?
食べていいですか?
「おすわり」
先生は怒らず、待っている。
ボクはとりあえず座った。
「そう! リキ、えらい!」
すぐにおやつがもらえた。
なるほど。
ここは、座ると食べ物が出てくる場所らしい。
次は「待て」だった。
目の前におやつがあるのに食べてはいけない。とても難しい。
一秒待つ。
「上手!」
二秒待つ。
「すごいね、リキ!」
三秒目で食べた。
「あっ」
先生が笑った。
怒られなかった。
もう一度やった。
今度は、先生が「よし」と言うまで待てた。
「リキは頭がいいね」
頭が悪そう、と言われたことはある。
頭がいい、と言われたのは初めてだった。
胸の奥が、朝ごはんを食べたあとのようにあたたかくなった。
幼稚園では、ほかの犬が近くにいても、すぐに向かっていかない練習もした。
犬を見る。
パパを見る。
できたら、ほめられる。
少しずつ、ボクは覚えた。
悪口が聞こえても、全部に答えなくていい。
パパの「リキ」という声を聞けば、そちらを見ればいい。
毎回できるわけではない。
ある日、いつもの角で白い犬に会った。
前にボクを「河原の犬」と呼んだ犬だ。
『また来たのか、よそ者』
胸の奥が、ざらっとした。
前足に力が入り、口の奥から低い声が出そうになる。
そのとき、パパが言った。
「リキ」
先生の声を思い出した。
犬を見る。
パパを見る。
ボクは白い犬から目を離し、パパを見上げた。
「そうだ。いい子だ、リキ」
パパの顔が、ぱっと明るくなった。
おやつを一つもらった。
『逃げるのか?』
白い犬が後ろで言った。
聞こえていたけれど、振り向かなかった。
逃げたのではない。
パパを選んだのだ。
家に帰ると、パパはママに何度もその話をした。
「今日のリキ、すごかったんだぞ」
ママはボクの顔を両手で挟んだ。
「やればできるじゃない」
福ちゃんは横で鼻を鳴らした。
『そのくらい、普通よ』
でも、その日の夜、福ちゃんは自分の毛布を少しだけボクの方へ寄せてくれた。
『太っちょ』と言われて、一度だけ追いかけた。
二度かもしれない。
でも、前よりは上手になった。
散歩でリードを引っ張る回数も減った。
ママが「おすわり」と言えば座った。
福ちゃんのごはんを横から食べようとして、怒られる回数も減った。
『そこはゼロになさいよ』
福ちゃんは言った。
◇
毎日は楽しかった。
朝は海岸を歩く。
ときどき名越の山道へ行く。
幼稚園では、できることが一つずつ増える。
夜はママの足元で眠った。パパが帰ってくると、玄関まで迎えに行った。福ちゃんは「先住犬が先」と言って、いつもボクの前へ出た。
この家では、朝になればごはんがあった。
呼ばれる名前があった。
眠っても、身体のどこかを起こしておく必要はなかった。
それでも、ときどき聞こえる言葉があった。
保護犬。
里親。
預かっている子。
ママが電話で話していた。
「はい。元気にしています」「まだ少し犬同士が苦手で」「写真、今度送りますね」
ボクのことだ。
里親さんが見つかるまで、ここで暮らす。
福ちゃんが最初の日に教えてくれた。
ここは楽しい。
パパもママもやさしい。
福ちゃんはうるさいけれど、ボクが眠るときは近くにいる。
でも、ここは本当の家ではない。
ボクは保護犬だ。
いつか知らない人が迎えに来て、また車に乗せられる。
そして、別の場所で新しい名前を呼ばれるのかもしれない。
そう考えると、遠くでカンカンカンカンという音がしたような気がした。
◇
ある晩、パパは赤い顔をして帰ってきた。
「ただいまあ、リキ!」
いつもより声が大きい。足も少しふらふらしている。
ママが眉をひそめた。
「また飲んできたの?」
「ちょっとだけ」
パパはそう言って、ボクの隣にどさりと座った。お酒の匂いがした。
「リキ、おまえ、最近いい子になったなあ」
頭を撫でる手が、いつもより重い。
ボクはパパの膝にあごをのせた。
ママが、ためらうように言った。
「ねえ、パパ。リキの里親のことなんだけど」
パパの手が止まった。
「里親?」
「いつまでも、このままというわけにはいかないでしょう。募集をどうするか、会長さんにも返事を……」
「いつ?」
パパは急に身体を起こした。
「いつ、リキを連れていくんだ?」
「まだ決まったわけじゃないの。だから、これから——」
「駄目、駄目。絶対に駄目!」
パパはボクの首に両腕を回した。
「リキは、うちの子にする!」
苦しい。
でも、逃げなかった。
うちの子。
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
ママは何も言わなかった。
パパを見て、ボクを見た。
目の中に、涙がいっぱいたまっていた。
「大変よ?」
声が少し震えていた。
「犬が二匹になるのよ。散歩も、ごはんも、病院も。リキは力が強いし、ほかの犬とまだ仲良くできないし……大変よ?」
「わかってる」
「本当に大変よ?」
「だから、俺が散歩する」
「二日酔いでも?」
「する」
「雨でも?」
「する」
「ずっとよ?」
パパは、今度はゆっくり答えた。
「ずっとだ」
ママの目から、涙が一つこぼれた。
それから笑って、ボクの背中を撫でた。
「じゃあ、うちの子にしようか」
福ちゃんは少し離れた座布団の上で、ぺたりとうつ伏せになっていた。
『ふーん。最初から、そうなると思ってたけど』
顔だけは涼しそうだった。
でも、尻尾の先が、座布団を何度も叩いていた。
パタ。パタ。パタ。
福ちゃん。
うれしいの?
『別に』
うれしいんだ。
『うるさいわね』
◇
次の朝、いつものように海へ行った。
ザザーン。
ザザザザザ……。
波は何度追い払っても戻ってくる。
福ちゃんの言ったとおりだった。
けれど、もう闘わなくてもいい。
ボクはパパの横を歩いた。少し前へ出そうになると、パパが「リキ」と呼んだ。
振り向く。
「よし。いい子だ」
ちゃんと、ほめてもらえた。
砂の上に、パパとママと福ちゃんとボクの足跡が並んだ。
昨日までと同じ四つの足跡だった。
でも、昨日までとは違う。
ボクはもう、里親さんを待つ犬ではない。
どこかへ連れていかれる犬でもない。
パパが言った。
リキは、うちの子。
逗子は、怪物のいない町。
そして今日から、ボクの町だ。


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