切通しの向こう側
チュンチュン、チュンチュン……。
朝だ。
いつもなら、もう聞こえてくるはずだった。
『リキ、起きなさいよ』
福ちゃんの声。
だけど、今日は聞こえない。
眠っているのかな。
福ちゃんがボクより遅くまで寝ているなんて、珍しい。
ボクは身体を伸ばし、福ちゃんの寝床を見た。
いない。
ソファの上にもいない。
台所にもいない。
ママの布団のそばにもいない。
お水の器は昨晩のまま。朝ごはんの時間なのに、福ちゃんの足音がしない。
玄関には、福ちゃんの赤い首輪とリードが掛かっていた。
おかしい。
福ちゃんは散歩へ行くとき、必ずママを連れていく。
ひとりで外へ出ることなんてない。
だって福ちゃんは、自分のことを犬だと思っていないからだ。
『散歩させてあげるわ』
いつも、そんな顔でママの横を歩いている。
ボクは寝室へ走った。
ワン!
ママ、起きてください。
福ちゃんがいません。
◇
「福ちゃん?」
ママは、まだ眠そうな声で呼んだ。
返事はない。
「福ちゃん、ごはんだよ」
それでも出てこない。
その一言で姿を見せない福ちゃんなど、見たことがなかった。
ママの顔から眠気が消えた。
押し入れ。お風呂場。テーブルの下。庭の植木の陰。
パパも起きてきて、家じゅうを調べた。
「玄関は閉まってるぞ」
「窓も全部閉まってる」
「じゃあ、どこから出たの?」
誰にもわからなかった。
ボクが脱走したあの日とは違う。
門は閉まり、鍵も掛かっている。
首輪もリードも家にある。
福ちゃんだけが、いない。
ママは赤い首輪を両手で握った。
「福ちゃん……」
その声を聞くと、胸の奥が冷たくなった。
ボクがいなくなったとき、ママはこんな気持ちだったのだろうか。
パパが玄関を開けた。
「手分けして探そう。俺は海岸へ行く」
「私は駅の方を探す。交番にも連絡する」
待ってください。
福ちゃんは、そっちにはいません。
ボクには、ほんの少しだけ匂いがわかった。
庭でも、玄関でもない。
開いた窓から入ってくる朝の風に、福ちゃんの匂いが混じっていた。
でも、いつもの匂いとは違う。
濡れた土。
苔。
昔の木。
そして、ずっと前に降った雨の匂い。
あの匂いは、山の方から来ている。
ボクはパパのズボンの裾をくわえた。
「なんだ、リキ」
山です。
早く。
ボクは玄関へ走り、もう一度パパのところへ戻った。
「もしかして、福ちゃんの場所がわかるのか?」
ワン!
パパ、早くしてください!
◇
ママは駅へ向かい、ボクとパパは山へ向かった。
朝の逗子は、まだ半分眠っていた。
パン屋から焼きたての匂いがする。
新聞を積んだバイクが走り抜ける。
いつもの犬たちが、家の中からボクを見ていた。
『今日はずいぶん急いでいるな』
福ちゃんを見ませんでしたか。
『あの黒い、お高くとまった子か?』
そうです。
『見てないよ』
福ちゃんは、お高くとまっているのではありません。
自分を人間だと思っているだけです。
でも今は、説明している場合ではない。
ボクは風の中の匂いを追った。
海の匂いが薄くなり、土の匂いが濃くなっていく。
道はだんだん細くなった。
舗装された道が終わり、足の下が土に変わる。
名越切通だ。
以前、パパとママと福ちゃんと歩いた古い道。
両側から土と岩の壁が迫り、木の枝が空を細く切っている。
「こんなところまで来たのか?」
パパが息を切らしている。
わかりません。
でも、福ちゃんの匂いはここへ続いています。
ボクは鼻を地面につけた。
匂いはある。
それなのに、足跡がない。
福ちゃんだけではない。猫も、鳥も、人間も、今朝ここを通った跡がなかった。
風が止まった。
葉っぱも揺れない。
鳥の声も、町の音も聞こえない。
聞こえるのは、ボクとパパの足音だけ。
ザッ、ザッ、ザッ。
パパが立ち止まると、音がひとつになった。
ザッ、ザッ、ザッ。
ボクの足音。
その奥から、もうひとつ音がした。
チリン。
鈴の音だった。
◇
切通しの先に、大きな岩があった。
岩の根元に、黒いものが見えた。
福ちゃん!
福ちゃんは苔の上に身体を丸め、眠っていた。
ボクは走り出そうとした。
そのとき、岩の上で長い尻尾が動いた。
猫だ。
白いような、灰色のような毛。
片方の耳が少し欠けている。細い目の奥だけが、朝の光を受けて金色に光っていた。
首には、古びた小さな鈴がついている。
猫は長い尻尾を前足に巻きつけ、ボクを見下ろしていた。
『来たか』
低い声だった。
福ちゃんを迎えに来ました。
『迎えに?』
そうです。
福ちゃん、起きてください。
ボクは福ちゃんへ駆け寄ろうとした。
でも、おかしい。
走っても走っても、福ちゃんとの距離が縮まらない。
すぐそこに見えるのに、岩と苔の道がどこまでも続いている。
後ろでパパが叫んだ。
「いた! 福ちゃん!」
パパも走っている。
けれど、同じ場所から一歩も進んでいない。
『人間には来られぬ道だ』
老猫が言った。
『犬のお前も、わしが許さなければ先へは進めぬ』
どうして福ちゃんを連れてきたのですか。
『わしが連れてきたのではない。この子が道を見つけた』
福ちゃんが?
そんなはずありません。
福ちゃんはひとりで散歩しません。
『この子は長いあいだ、自分を人間だと思って生きてきた』
そのとおりです。
『人間と同じ速さで歳を取り、人間と同じだけ生きるつもりでいる』
老猫は福ちゃんを見た。
『だが、犬の時間は人間より速い。身体は、そのことを知っている』
老猫の鈴が、風もないのに小さく鳴った。
『昨夜、この子の夢が切通しへ迷い込んだ』
夢?
『人間たちの話を聞いたのだ。この子も歳を取った。歩くのが遅くなった。眠っている時間が長くなったとな』
そういえば昨日、ママとパパがそんな話をしていた。
「福ちゃんも、もうおばあちゃんだから」
ママは笑って、福ちゃんの背中を撫でていた。
福ちゃんは聞こえないふりをしていた。
でも、本当は聞いていたんだ。
『この子は夢の中で尋ねた。どうして自分だけが先に歳を取るのか。どうすれば家族とずっと同じ時間を歩けるのかとな』
老猫は、眠る福ちゃんの額を尻尾の先で撫でた。
『わしは、その願いに答えただけだ』
では、福ちゃんが自分でここへ?
『身体は家に置いたまま、夢だけでこの道を歩いてきた。夜明けまでに帰らなければ、身体もこちらへ移る』
切通しの細い空を見上げると、朝の光が少しずつ強くなっていた。
時間がない。
福ちゃんを連れて帰らなければ、本当に遠いところへ行ってしまう。
福ちゃんは眠ったまま、少しだけ足を動かした。
海岸を歩いている夢でも見ているのだろうか。
『この子は疲れたのだ。自分だけが先に歳を取っていくことにな』
福ちゃんは疲れてなんかいません。
毎朝、誰より早く起きます。
『それが疲れていない証しになるのか』
なりません。
でも、朝ごはんはいつも全部食べます。
老猫は少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
◇
『わしは、この子を遠いところへ連れていく』
遠いところ?
『そこでは歳を取らぬ。身体も痛まぬ。空腹にもならぬ』
空腹にならない?
それは少しだけ良いところかもしれない。
でも、ママのごはんが食べられない。
パパと海岸を歩けない。
ボクを起こすこともできない。
『別れもない。悲しみもない』
それでも駄目です。
福ちゃんは、うちへ帰ります。
『帰っても、やがて別れの日は来る』
老猫の声が、切通しの岩に響いた。
『人間は残り、犬は先に行く。この子はいつか、お前たちと別れなければならぬ』
別れ。
ボクには、その意味がよくわからなかった。
でも、ママが福ちゃんの首輪を握っていた顔を思い出した。
誰もいない寝床。
返事のない朝。
それが毎日続くことなら、ボクは嫌だ。
今日、福ちゃんが帰ってこない方が、もっと嫌だ。
『この子は、ここで起きたことを覚えていない』
老猫が言った。
『目を覚ましても、お前が探しに来たことも、わしに頼んだことも忘れている。それでも連れて帰りたいか』
はい。
『礼を言われることもないぞ』
いいです。
『お前のことさえ、いつか忘れるかもしれぬ』
それでもいいです。
福ちゃんが忘れたら、ボクが覚えています。
ボクが忘れたら、きっと福ちゃんが覚えていてくれます。
老猫は黙ってボクを見た。
金色の目に、ボクの小さな姿が映っている。
『なぜ、それほどこの子を連れ帰りたい』
福ちゃんは、うるさいです。
毎朝、まだ暗いうちにボクを起こします。
散歩では、歩き方がなっていないと注意します。
ごはんを早く食べると、もっと味わえと言います。
ママの隣は自分の場所だと、いつも威張っています。
パパが酔っぱらうと、いちばん冷たい目で見ます。
老猫のひげが、少しだけ動いた。
『困った犬だな』
はい。
とても困った福ちゃんです。
でも、眠る前には家族が全員いるか、必ず確かめます。
ボクが迷子になったとき、福ちゃんが迎えに来てくれました。
だから今日は、ボクが迎えに来たんです。
◇
切通しの奥で、風が動いた。
木の葉が一枚、老猫とボクの間へ落ちた。
『この子を連れ帰れば、何でもない日々が戻るだけだぞ』
それでいいです。
『同じ海岸を歩き、同じものを食べ、同じ場所で眠る』
はい。
『そんなもののために、別れのある方を選ぶのか』
そんなものではありません。
今日の散歩が、まだ終わっていません。
福ちゃんと一緒に帰らないと、散歩は終わりません。
老猫は長いあいだ黙っていた。
やがて岩から下り、福ちゃんのそばへ歩いた。
チリン。
首の鈴が鳴る。
『ならば、家で呼ぶように、この子の名を呼べ』
ボクは大きく息を吸った。
福ちゃん!
起きてください!
帰りますよ!
福ちゃんの耳が、ぴくりと動いた。
もう一度。
福ちゃん!
ごはんの時間です!
福ちゃんが片方の目を開けた。
『……ごはん?』
次の瞬間、道が元に戻った。
福ちゃんはすぐ目の前にいた。
パパが駆け寄り、福ちゃんを抱き上げた。
「福ちゃん! よかった! こんなところで何してたんだ!」
福ちゃんはパパの腕の中で、不機嫌そうに瞬きをした。
『何って、寝てただけよ』
どうやってここへ来たんですか。
『ここ?』
福ちゃんは周りを見回した。
『ここ、どこよ』
覚えていない。
老猫の言ったとおりだった。
ボクが岩の方を見ると、もう誰もいなかった。
濡れた苔の上に、小さな足跡がひとつだけ残っていた。
◇
家へ戻ると、ママが玄関から飛び出してきた。
「福ちゃん!」
パパから福ちゃんを奪うように抱き取り、その場に座り込んだ。
「どこ行ってたの! どうやって出たの! 心配したんだから!」
ママは福ちゃんの顔を両手で挟み、泣きながら何度も頬ずりした。
『ちょっとママ。苦しい。顔が濡れるじゃない』
福ちゃんは、とても迷惑そうな顔をしている。
でも逃げようとはしなかった。
「リキが見つけたんだ」
パパが言った。
「真っすぐ切通しまで連れていった。すごかったぞ」
ママは福ちゃんを抱いたまま、ボクの頭を撫でた。
「リキ、ありがとう」
いいんです。
福ちゃんが帰ってきたので、ごはんにしてください。
『やっぱり、ごはんのことしか考えてないのね』
福ちゃんが、いつもの声で言った。
その声を聞いて、ママとパパが笑った。
もちろん二人には、福ちゃんの言葉は聞こえていない。
でも、福ちゃんがいつもの顔に戻ったことはわかったらしい。
◇
次の日の朝。
チュンチュン、チュンチュン……。
『リキ、起きなさいよ』
福ちゃんの声がした。
はい。
起きています。
『何よ、今日はずいぶん素直ね』
二人と二匹で、逗子海岸へ向かった。
福ちゃんはママの横。
ボクはパパの横。
昨日と同じ道。昨日と同じ潮の匂い。
パン屋から流れてくる焼きたての匂いも、角の電柱の匂いも、全部いつもと同じだった。
海岸へ出ると、朝の光が水の上で揺れていた。
ザザーン。
波が白い泡を伸ばし、ボクたちの足元まで来て逃げていく。
ボクは砂浜の途中で立ち止まった。
山の方から、濡れた土と苔の匂いがした。
遠くの石垣の上に、白いような灰色のような猫が座っていた。
金色の目が、こちらを見ている。
チリン。
風の中で、小さな鈴が鳴った。
瞬きをすると、猫はもういなかった。
『リキ、何をぼんやりしてるの。置いていくわよ』
待ってください、福ちゃん。
ボクは家族の後を追った。
福ちゃんは、昨日のことを何も覚えていない。
それでいい。
福ちゃんが忘れても、ボクが覚えている。
ボクが忘れたら、きっと福ちゃんが覚えていてくれる。
ザザーン。
いつもの波が来て、四人分の足跡を消していく。
それでもボクたちは、また四人で新しい足跡をつけながら歩いていく。
名前を呼び合い、ときどき喧嘩をして、同じ家へ帰る。
いつもの、何でもない散歩道を。
完

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